幸せになる勇気 引用

アドラー心理学から見る問題行動の目的

行為だけに目を向けるのではなく、その目的を見定めなければならない。

第一段階【称賛の欲求】
いい子を演じる
褒められようと行動する
目的はあくまでも「ほめてもらうこと」であり、「共同体の中で特権的な地位を得ること」
自身の取り組みについて誰からもほめられなかったとしたら、不満を抱き憤慨する
誰からもほめられないのなら、特別視されないのなら、こんな努力に意味はない、と途端に意欲を失う。
「ほめてくれる人がいなければ、適切に行動をしない」のだし「罰を与える人がいなければ、不適切な行動も取る」というライフスタイル(世界観)を身につけていく。
👉特別でなくとも価値があると教える
尊敬を示す=
「いいこと」に注目するのではなく、もっと日頃の些細な言動に目を向ける
その人の「関心事」に注目し共感を寄せる

第二段階【注目喚起】
「いいこと=先生が求めること?」をしたのにほめられない
特権的な地位を得るまでに至らない
そもそも「ほめられること」をやり遂げるだけの勇気や根気が足りない
ほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろう
ほめられようとは思ってない、とにかく目立つことだけを考える
目的は、学級の中で特権的な地位を得たい、自らが所属する共同体の中に確固たる「居場所」がほしい
正攻法じゃ無理だもの、だから「わるい子」として自分の居場所を確保する
「いたずら」騒ぐ
からかう、しつこい(教師や生徒から愛されることも少なくない)
「できない子」として振る舞う
学力の著しい低下、忘れ物をくり返す、泣く
存在を無視されるくらいなら叱られる方がずっといい
例え叱られるという形であっても存在を認め、特別な地位においてほしい

👉特別でなくとも価値があると教える
そのままで十分価値がある
尊敬を示す=
「いいこと」に注目するのではなく、もっと日頃の些細な言動に目を向ける
その人の「関心事」に注目し共感を寄せる


第三段階【権力争い】
誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することによって、自らの「力」を誇示しようとする。特権的な地位を得ようとする。(手強い)
「反抗」口汚い言葉で罵る、癇癪を起こして暴れる、平然とルールを破る
「不従順」どんなに叱られようと勉強を拒絶する、大人たちの言葉に無視を決め込む
勉強したくないとも勉強が不要だとも思ってないが、不従順を貫くことにより自らの力を証明する
ここで叱責することは、挑発に乗り「相手と同じコートに立つこと」
ラリーが始まってしまう
👉法に触れる問題であれば、法に従った対処が必要
それ以外の権力争いを察知したときは、すぐさまコートから退場する
まずやるべきことはそれだけ
叱責するのはもちろん、腹立たしそうな表情を浮かべるだけでも、権力争いのコートに立つまでしまうのだと考えてください


第四段階【復讐】
意を決して権力争いを挑んだのに歯が立たない。
勝利を収めることができず特権的な地位を得ることもできない。
相手にされず敗北を喫してしまう。そうして戦いに敗れた人は、一旦引き下がった後に「復讐」を画策します。
かけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復讐をする
称賛の欲求、注目喚起、権力争い
これらは全て「もっとわたしを尊重してほしい」という愛を乞う気持ちの表れ
愛の希求が叶わないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになる
愛してくれないのなら、憎悪という感情の中で、わたしに注目してくれ
第三段階だと、権威に立ち向かい大人に立ち向かうことで英雄になれる可能性がある、その勇気を称えられて
しかし第四段階に突入した子どもは誰からも称えられない
親や教師はもちろん級友からも憎まれ恐れられ徐々に孤立する
それでもなお「憎まれている」という一点でつながろうとする
「権力争い」
正面から正々堂々と戦いを挑む、暴言混じりの挑発も彼らなりの正義を伴った直接的なもの
「復讐」
正面切って戦わない、ひたすら「相手が嫌がること」を繰り返す
ストーカー行為…愛してくれなかったという復讐、嫌がっていることを十分理解し、良好な関係に発展し得ないことも理解している。憎悪や嫌悪によってなんとかつながろうと画策する
自傷行為、ひきこもり…復讐の一環
自らの価値を毀損していくことで、こんな自分になってしまったのはお前のせいだと訴える、親は心配し、胸が引き裂かれるような思いに駆られる、そらが復讐の成功
反社、非行、犯罪、常識では考えられないほど不潔、嫌悪感を抱かざるおえないほどグロテスクな趣味…など
👉できることはない
目的は「あなたへの復讐」手を差し伸べようとすればするほど、復讐の機会が来たとばかりにエスカレートしていく
利害関係のない第三者に助けを求めるしかない

第五段階【無能の証明】
特別な存在として扱われようと様々な策を講じてきたものの、どれもうまくいかない。親も教師も友も、憎むことさえしてくれない、学級にも家庭にも居場所を見いだせない、何をやっても認められないから何の努力もしなくなる
でも親や教師はもっと勉強するように説教したり、学校での態度や友達関係についてことあるごとに介入してくる
、無論援助しようと思って
余計なお世話です!そんなものうまくやれるならとっくにやってますよ、一切構わないでほしい
その思いも理解してもらえない
周囲はあなたにもっと頑張ってもらいたいと思っている、やればできるし、自分の働きかけによって変わるはずだと期待している。
そんな期待大迷惑だといっているでしょう!放っておいていただきたい
そう、まさにその「これ以上わたしに期待しないでくれ、なぜならわたしは無能なのだから」という思いが「無能の証明」につながる
人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分には何も解決できないと信じ込む
これ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる
周囲に対しては「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる
あからさまな愚者を演じ、何事にも無気力になり、どんな簡単な課題にも取り組もうとしなくなる
やがて自分でも「愚者としてのわたし」を信じ込むようになる
「僕は馬鹿だから」と言葉にできるのなら自嘲している
ほんとうの第五段階に入った子どもは愚者を演じるうちに何らかの精神疾患を疑われることもあるほど
課題に取り組もうとする自分、物事を考えようとする自分に対して、自らブレーキをかける。そしてただただ厭世(えんせい)的に課題を拒絶し、周囲からの期待も拒絶する
目的(願い)は、何も期待しないでくれ、わたしに構わないでくれ、わたしを見捨ててくれ
手を差し伸べようとすればするほど、より極端なやり方で無能の証明を図る
👉できることはない、専門家にとっても困難
第三段階の先に踏み込ませないためにも教育者に課せられた役割は大きい

第一〜第五、すべては所属感、つまり共同体ののなかに特別な地位を確保すること、という目的に根ざしている
問題行動は「あなたに叱られること」まで含んだ上での、問題行動
叱責されることは、彼らの望むところ
「叱られるような特別なことをした」という達成感=特別の証明
コミュニケーションの目的、目標
→合意形成
伝えることは入り口に過ぎない
言語による合意形成は、時間、労力が要る、費やされるコストの割に即効性と確実性があまりにも乏しい
議論にうんざりした人、議論では勝ち目がないと思った人が選択するコミュニケーションが「暴力」
法と秩序を守るのは教育者の仕事ではない、今守るべきは目の前の子供
教育者とはカウンセラーであり、カウセリングとは再教育
怒りとは人と人とを引き離す感情
ニーバーの祈り
「神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」
変えられないものに執着するのではなく、眼前の変えられるものを直視する

自分の理性を使う勇気を持て
他者の指示を仰いで生きていたほうが楽
考えなくていい、責任を取らなくてもいい、面倒なことは誰かが引き受けてくれる
過干渉、過保護は自立を妨げる
子供をコントロール下に置くのは自ら責任を回避するため、自らの保身のため
だからこそ自立という目標を常に掲げなければならない
そういう理性が必要
先生のおかげでできるようになった→最悪
「自分で決めていいんだよ」と教えること
そのための知識経験を提供すること
それが教育者