考え方って家族や周りの人に少なからず影響を受けています。

じゃあ「自分の考え」ってなんなんだろう。

出会う人が違えば、生まれてくる場所が違えば、私は今の私ではない、他の私になっていたのだろうか。
考え方だって今とは全然、違っていたのだろうか。
私が今悪だと思っていることを、善だと思う自分が、そこにはいたのだろうか。

そう考えると、自分が自分である事とか、自分がこうだと思っている考え方は、とても不安定な、確証のない、いつ変わるかも分からないような曖昧なものに感じる。

「私」を作ったのは、紛れもなく私。
だけど、その「私を作った私」を作ったのは周りの人と環境だと思う。

じゃあ、あの子も...あの子だって、違う場所に居れば、違う人と出会えば、違う親の元に生まれれば、今とは違うあの子になっていたのかもしれない。

生まれ来る環境は選べない。
生まれついたら、そこで生き抜くしかないのだ。

だから、環境とか場所の力で報われない思いをしている人を見ると、放って置けなくなる。
もし違う環境なら、違う人となら、あの子は笑っていられたのではないかと。

そんな時、私が、私がその違う環境に、その違う人になれないかと、そう思うのだ。

でも、なんでも受け入れられるほど、私は出来た人間じゃない。
嫌だと思う事もある。逃げたいと思う事もある。
私があの子を救えるんじゃないかって、そんなこと言うのは、無責任だと思う。責任を負えきれないことぐらい分かってる。

でも、それでも、何もできないわけじゃないと思う。

だから、自分に何ができるか。
その人にとって自分はどういう存在であるべきなのかを、いつも考えている。

例えこの想いが、この考え方が、私じゃない誰かの影響によって成り立っているとしても。明日には変わってしまうとしても、今この時の私の想いだ、と思いたい。