弁証法というものがあるらしい
- みんなそれぞれの生き方があるように、育ち方も人によって違うと思うんです。知識の取得方法はある程度までいけば手段の違いとかはなくなってくると思うんですよ。でも、そうじゃなくて自分自身をどう成長させるかっていうアプローチの方法はひとりひとり違って、正解は無限にある。だってそれは人生でどういう選択をしていくかってことだから。RPGとかでさ、一人で切りかかっていく剣士がいれば、物陰に隠れて攻撃する弓使いがいて、ガチガチに装備してる重歩兵がいれば、そんなんありかよ〜みたいな魔法使いがいて、戦わないヒーラーもいる。でさ、みんなそれぞれ自分に合った方法で経験値獲得して成長していくんだよ。ね、そういうことでしょ?それで勇者でも女神でもない私の経験値の積み方はね、人と話すことだって分かったの。いろんな人とリアルで出会って、話をして、おもしろいとか、つらいとか、好きとか、無理とか、いろーーーーーーんなこと思って、焼き付けて、忘れて、思い出して、それの繰り返し。倦怠期で死んだようにベッドにうずくまる時もあるけれど、でも、それでも誰かと本気で話をしてる時は本当に楽しいと思うし。本当に傷つくし。…生きてるって思うし。人と話をすることは正義だとは言わない。言えないよなって思うんです。だって人と話すのが嫌いな私もちゃんといるもん。でも、基本的には人と話すことを楽しいと思っているし、自分や世界を変える力があると思っています。だから、私はこの作品を作っているんです。人に教えようと思って教えられることなんて1つもなくって、それはもうずっと前から分かっていたはずなのに認めたくなかった。ただ私が私で在るということでしか他者に何かを与えることなんかできやしないんですよ。人が一生懸命死に物狂いで頑張ったり、涙したり、笑ったりしてるのを見てそういうキラキラに何度も勇気づけてもらったように。主語はいつだって自分だし、誰かに奪われることは絶対にないんだよ。生きている限り、私が私を認識できる限りは…。だからさ、「私は私よ」としか言えないけど、逆にそう言えるの私しかいないっていう。それが表現のオリジナリティじゃん。別に人に会えとかもう言わないよ。うざいでしょ?それは君にとっての〈答え〉じゃないもんね。この狭い箱の中に、こんなにもおもしろい人達(少なくとも私が18までに出会えなかったような人達)がいて、人生があって、自分を表現していて。そんなひとりひとりを肯定したいと思うんです。やってることがビッグかどうか、じゃなくて、その人がその人なりにその人の信念や美学に基づいて生きてるって事が、もっともっとこんな言葉よりも、もーーーーっとすごいって言われるべきことなんだって、思うんです。私がなぜこの作品を作っているのかという問いに対して〈応え〉られることは、せいぜいこんなもんです。
- もう、なんかもう精神削がれたからか頭使ったからか眠いよ……………まだこんな時間なのに…………お家帰りたい…………………寝たい💤電気毛布であったかいベッドに潜りたいよぉ〜〜〜
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