わたし、共同体。説
- きょうは学びの日反省はあるけど後悔してない、怒りにも似た真摯さで喋ってる時、だんだん青ざめていってたって、😨血が上って赤くなる😡とかなら分かるのに…いや、青白くなるんかいwwww自分じゃ見えないから気付かなかったけど面白すぎでしょwwww言葉、使い間違えられない緊張感で頭フル回転させながら、冷静に冷静に言葉を紡いでどうしたら伝わるかを考えてたら逆にめちゃくちゃ副交感神経はたらいたのかな??www😂😂😂からだおもしれぇ〜〜(ひとり抱え込まなかったという意味で)不安の痛みを他人に投げつけることができたものの、やはりそれを素直な言葉で投げつけることが最善であると思う、伝えるということは傷つけるという行為ではない、と思うんだ。とにかく!楽観視&傷口と向き合うことこれが人生をキラキラさせることなんじゃないかなと思ったわたしのぺあれんつはこの2人です。
- 自己の破滅へと歩む“わたし”というものでさえ、共同体であるならば、個性も、生き様も、孤独も無く、私=わたしの生命を維持するための身体管理責任者というだけで在る。母の悔いが、父の願いが、彼女の慕情が、そしてひとりひとりの愛が、kintsugiされた歪んだパズル。family nameとは、共同体を示すもの。ただ生命活動を維持することのみ。そこ以外はどう考えても連帯責任。ただその生を背負うという事実からは逃れられないものの、それを呪縛とするかランドセルとするかは、じゆう。限りなく頑張らない柔軟で頼りない方が怪我しない働く意味はお金以外にあり得ない、なんて屑かなぁ、通知オンでも基本無視。今にしかガンは飛ばさん。どーでもいいで生きる、幸せ。
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