自己の破滅へと歩む

“わたし”というものでさえ、共同体であるならば、
個性も、生き様も、孤独も無く、
私=わたしの生命を維持するための身体管理責任者というだけで在る。

母の悔いが、父の願いが、彼女の慕情が、そしてひとりひとりの愛が、kintsugiされた歪んだパズル。

family nameとは、共同体を示すもの。

ただ生命活動を維持することのみ。
そこ以外はどう考えても連帯責任。

ただその生を背負うという事実からは逃れられないものの、それを呪縛とするかランドセルとするかは、じゆう。

限りなく頑張らない
柔軟で頼りない
方が怪我しない



働く意味はお金以外にあり得ない、な
んて屑かなぁ、
通知オンでも基本無視。

今にしかガンは飛ばさん。
どーでもいいで生きる、幸せ。