苦痛が生じると言うことは何らかの偏った見方(個性ともいうのか?)があるってことなんね

困難が必要なのは、その中の苦痛というものの価値が(快に)すり変わるからです。不思議なことです。ある種人間は変態化していって成熟するわけ。そういう人が菩薩になったり聖人になったりするんですよね。感覚の幅が広がる。感覚の幅が広がることによって人間は変態化する。変態になることによって喜びが深まり、人との共感性が深まり、人の苦しみが分かるようになる。そうすると人に、喜びあるいはほっとするやすらぎを与えることができる。その瞬間に二人の間に生まれるといってもいいね。そうすると自分もその喜びを得ることができる。
この畳み掛けで涙出た
なんか救われるよなぁ真理にはいつも救われる、これは弱いからではなく感動の涙だと思ってるからぺつにええんやノーカンや

まぁ単純に多くを受け入れるほど自分の領域は広がるよなぁ、それが器が大きいとか言うのかな?(ちょっと違う気もする)

こないだ負けず嫌いについて思ったのが、負けず嫌いって「負けて終わるのが納得いかないから勝てるように努力できる人」のことを言うのであって、「ただただ負けたことを受け入れられない人」ではないじゃないですか。
前者は悔しさとか怒りのエネルギーを成長の燃料にするんだけど、後者はなんつかわがまま?自分はできる人間のはずだ〜こんな現実ありえない〜って、そうまさに現実逃避と同じで、それは…どうなん?
でもぱっと見同じにされちゃうし、後者が私負けず嫌いなの〜とか言ってるのはよく聞く話な気もする。
…ま、つまり苦しみを苦しみと思わないかどうか、だなって思ってたんすよ。