グローバルは依存し合うこと。

経験談は一般化してはいけない
他人の行動を自分の行動の指針にしない
確かに、それで生きることはその人の人生のコピーだからなぁ…
じゃあ例えば親の失敗談を聞く、「あなたはそうならないようにね」とか
サーチライトの「俺みたいにはなるなよ」とか?語り部なんかはどうなんだ?
つまり指針は別として決まっていて、その指針に沿った経験談を話すという、あくまでも道具的に使うものなのだろうか。

例えばダイエット法、これはわかる気がする。わたしはこれで痩せれました!というのを“これをすれば痩せる”と一般化していいのか?という話

では教師がこういう経験からこういうことを学んだ、とかいう話も実は学びとしてはあまり意味のない、もしくは生徒に対して、教師の人生をアップデートして生きさせるよう指導しているようなものなのか?

たしかにそうなのかもしれない。
自分が成功したこと、失敗したことを伝えるべきではないのかもしれない。

んーでもそれによって気をつけよう、とか…あ、これはいいのか。
このへんの主語とか意識が難しい、そのまま鵜呑みにするのではなくということだろうか?

どこでも転がってるようなよくある話であるが、実は落とし穴といったところか。これについてはもう少し考えないと心底理解はできてないな、現状


良心、同情心、それから命が大切だというヒューマニズム。これがいっちばんデマに引っかかる人格。
僕たちの中で最も弱い部分はそこ。ヒューマニズム、命が奪われたとか、不当に差別を受けたとか、権力はこういう悪い魂胆をしているとか、大富豪は裏でこんな酷いことをやっているとか、そういうこと。つまり弱者である者がいじめられている、弱者が抑圧されている。こんなんいっぱいFACTがあります。でもFAKEも渦巻いてる。
僕たちの中で「善人でありたい」っていう欲求がある。『あなたがもしも良いことをするのであれば、決してわからない形でいいことをしなさい。』あるいは『あなたが断食をするのであれば、誰にもわからないやり方でしなさい』と。身なりも整えて、そしてニコニコ笑って、それでも家でずっと断食をしなさい。「はい!わたしは断食をしてます!」みたいな、もう衰えた顔をして顔にハッタイ粉でもつけて白い顔をして「わたしはこれだけ神様に尽くしてます!」って言ったって神様はお喜びにならない、っていうような意味のことを福音書にまで載ってます。あれはすごく大きいですよね。僕たちは良き人でありたいです。そして弱者を救いたい、あるいは弱者とともにありたい。でも(その欲求は)軽薄な場合がある。あえて言いますけど。
善良な人によってたくさんの人が崖から落ちたりすることがあるのがこの国ですよ。この国っていうのはほんまにそこにものすごい大きな弱点がある。

科学が発達することによって宗教が不必要なものとされてしまったのは、現代の大きな過ちであるのかもしれない。
確かに宗教は傾倒しすぎるところがあり危険な面もある。でもそれは科学も同じではないか?
私は科学が発展した今だからこそ、フラットな視点で宗教について学ぶべきだと思う。宗教は一体何をもたらしていたのか。宗教を知らない私たちは一体何を失ったのか。
文化は何故劣化しているのか。