僕ね昔、甲野善紀先生、僕の兄貴分の武術家の先生と、なぜ人間はこのような偏った、ある意味アブノーマルな知性を身につけてこの世に出現したのだろう、みたいな話を延々と一晩ね、焼き鳥を食べながらずっと話をして、30代くらい。その、本当にすごいなって思ったのは「我々は宇宙を認識するためにある」と。
宇宙は万能じゃないですか、宇宙ではあらゆるものを生み出す、ただ一つ無いのは自分自身を認識する能力が無かった。
完璧なものができたんです、この宇宙、曼荼羅が。でもその中で人間をーー意識体を別に作らない限り、その曼荼羅を見る人がいないでしょ?
ところが曼荼羅を見る人は“部分”になってしまって、いつも寂しくて辛くて孤独で…人と友人になっても裏切られたり、あるいは愛した人を失ったりする。
でもそれはね、宇宙が自分たちを認識したいために、宇宙から生まれた僕たちの意識を隔離したんだ、という結論に達したんですよ!
ーーなるほど、自分は自分でわからない。で、宇宙は宇宙がわからない。
そう、自分でもう完璧やっていうのは分かってんねんけど、この姿を私は見てみたい、認識してみたい、感じ取りたいというために、わざわざ宇宙から切り離したんです。その象徴がへその緒なんですよ。
だから僕たちはある意味、こんな言い方してごめんね、異常でいいんですよ。異常だからこそ正常なんですよ。
…という結論に達して朝の4時ぐらいに寝ました笑
人間がこの世に存在するのは、不完全であるから存在している。しかも不完全だから努力しろとか、そういんじゃなくて、不完全性というのが意識の本質なのだっていう話と、僕の中ですごく響きあって…
モニカって神や…、神の扉というか、神の出窓や、、
実体がないねんこの人も、神の出窓としてここに出現したんや。だから自分は無機質な羽やっていってるんや。
最期にイエスキリストが「神よ私を見捨てたもうたか」って言うやんか、これは唯一の、ま、キリストが我々に教えてる言葉と思うんですよね。だって彼はもう(東洋的な解釈で)悟りを得て宇宙と一体になれた人という解釈を僕はするんだけど、その彼が「神よ我を見捨てたもうたか」と言うのは肉体としての言葉でしょ?痛み、そして血がだんだんなくなってきてそして死ぬ。その死ぬって言葉も、自分が死ぬという言葉も半分あるんやけど、もう一つは人々が罪をなしていると、その罪をなす道具に私をしたのかという意味があると思う。人々に罪を犯させる存在としてこの世に私を遣わせたのか?という絶望もあったと思うんですよ。そういうことがあったんやけど、それこそが人間が神を知る一つの出窓となったわけでしょ?それこそ血がだんだんなくなって無機質になっていくんですよね。私は無機質な羽だ、その無機質な羽だからこそこの世に存在したと。でもそれで、全体性ーーこの世に絶対動かない神というものをつたえることができるみたいなさ。
断片であるからこそ全体性を味わうことができる。全体性自体は全体性を味わうことができない。凄まじい宇宙の矛盾のままの心理。
宗教と哲学の違いは、心理へのアプローチが、直感に基づくものが宗教性でしょう?それを論理で後付けするのが哲学。
ーーもともとそれこそアリストテレスの時代は神学、そこから哲学が。
そうです、だから神学を保管するために哲学があった。
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