心と体の相互作用(人生の意味の心理学【上】より抜粋&要約)
行動には必ず、心がある
心の目的がある
動物とは心あるものであるからこそ“動く”のである
心は安寧の地を求める
心があり、そして行動がある
それが破滅への道だったとしたなら、心が誤って「有利である」または「最善である」と考えてしまつまたから
心は誤るものである
真理の場所を見誤るゆえ、迷うのである
運動の目標は心、すなわち“感覚”である
(1)まず相手の行動を見る
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(2)その行動に至る目標(相手がどういうことに安全を感じるのか)を考える
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(3)行動の出発点=(2)を目標とする心(感覚)を見つける(無意識的な劣等感)
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(4)相手がどんな状況に置かれ、どんな条件において「安全ではない」と感じているのかを見つける
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(5)劣等感を克服するために正しい方向に向かって進んでいるか?望むものを確保するための方法を誤ったのではないだろうか?
われわれは、最終的な目標を批判する必要はないが、それを達成するためには間違った方法を選んだということを指摘できるかもしれない
人生に与える意味、追求する目標、課題へのアプローチの仕方、感情的な性質は後に変えることができるが、それはこども時代に獲得した間違った方へと導く態度から自らを自由にすることができる時だけである。
見たり聞いたりする仕方や、何が注目を引くのかに気づけば、その人について多くのことを学ぶことができる。
子どもが、いつも体の障害や動くことが困難であることを気にかけていれば、他者に関心を持つ時間も自由も見出さなくなる。その結果、共同体感覚が少なく、協力する能力も少ないままに成長することになる。
全体に貢献したいと望み、他者に関心を持つ子どもだけが、欠点を補うこと、その学びに成功する。
もしも子どもが困難を取り除きたいとだけ願っていれば、ずっと遅れたままだろう。
関心と注意がどこへ向けれているかが問題である。
自分自身の限界を強調したり、あるいは、ただそこから解放されるという目的のためだけに闘うことを強調することに関心があるのなら、進歩することはない。
困難を克服するならば、目標を自分自身の外になければならない
現実への関心、他者への関心、協力への関心に基づいた目標である
授業妨害に悩む学校では、生徒の態度に関係するあらゆることがあまりに強調される。教師たちはそのような時に妨害を止めさせようと、誤って過度に努力する。子どもがこの問題にどれほど価値が置かれているかに気づくと、おそらく、反抗するだろう。この種の教育に反対であることを主張する絶好の機会を子どもに提供することになる。教師が与える指導に抵抗する子どもは、常にもっとも弱いところをついて攻撃する方法を見出すだろう。
反抗的な態度によって、自分自身の意思を持っているということを示す絶好の機会にしているのである。
(夜尿症を授業妨害に置き換えて)
注目を引くこと、他の人を仕えさせること、昼だけでなく、夜も注目させることである。時には反感を買うために使われる。その習慣は宣戦布告なのである。どちらにせよ、夜尿症が、創造的な表現であることは明らかなのである。子どもは口の代わりに膀胱で話すのである。
そのような子どもたちは注目の中心にはいられなくなった、甘やかされた子どもたちである。
何らかの理由で、自分だけ注目させることが難しいと思うのである。
たとえ不快な手段によってでも、母親とより親密に接触をしようとする試みを表している。結局こういってるのだ。「わたしはあなたが思っているほど大人ではない。まだ世話をされなければならない」と
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